童謡・一年生になったら は怖い
春が近づいてきた。寒いのは苦手なので早く春が来て暖かくなってほしい。
春は入学や卒業の季節だ。入社という人もいるだろう。
この春に幼稚園や保育園の卒園式でよく歌われるのが、童謡「一年生になったら」である。私が幼稚園生だった時も歌ったし、どうやら今も歌われているようだ。
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作詞:まどみちお
作曲:山本直純
いちねんせいになったら
いちねんせいになったら
ともだちひゃくにんできるかな
ひゃくにんでたべたいな
ふじさんのうえでおにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと
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この歌詞に私は恐怖している。
「ともだちひゃくにんできるかな」
の所にである。
なぜ数字で示す必要があるんだろうか。
「ともだちたくさんできるかな」
で十分なはずだ。
まだ5歳くらいの子供に大きな声でこの歌を歌わせて、ともだちが沢山いることが正義である事を刷り込んだ上に"100人"という具体的な希望人数まで出している。怖い。
おそらく人生で一番最初に課される数字的ノルマではないだろうか。
この曲を卒園式で大きな声で歌った子が、小学校に入学しともだちが20人くらいしか出来なかったらノルマと現実の狭間で悩んでしまうんじゃないだろうか。
100人を超えるともだちを作り見事にノルマを達成した同級生にコンプレックスを感じる可能性すらある。
しかしみんな分かってる。
ともだちは100人もいらない。100人もともだちがいる奴は、相手からともだちと思われているかも怪しいもんだ。(強い偏見ですいません)
ビートたけしはともだちの基準をこう定めた。
「そいつが困っている時に何を差し置いても助けてあげる事。自分が困っている時にそいつに何もさせない事。」
友情はお互いに一方通行である事が美しい。
何を言いたいかというと、ともだちは少なくていいという価値観がもっと広がってほしいのだ。ともだちがひゃくにんいる、ことが素敵だという価値観がまだ卒園式で歌われているから仲間はずれやイジメが起こる。
ともだちは少なくていい。
そんな価値観が広がれば、もう少し生きやすくなる気がする。
先日、結婚披露宴の最後に新郎が挨拶の中で
「僕は友達が少ないです。今日来てくれているこの10人しか友達がいません。来てくれてありがとう。良かったらこれからも仲良くして下さい。」
という言葉があった。
感動して響いて泣いてしまった。
10人しか友達がいなくてもいいじゃないか。
1人しかいなくてもいいじゃないか。
小学校で友達が出来なくても、もっと先の大学で学校以外の趣味の集まりで色んな所で出来るかもしれないんだから。
思い返すと私は小学校に入学し、最初に出来た1人の友達と昼休みにずっと校庭を掘って恐竜の化石を2年間探し続けていた。雨の日は掘り返したカケラや破片を図書室の恐竜化石図鑑で照らし合わせて、どの部分の化石かを妄想していた。
付き合ってくれた友達はそいつだけだった。でもそれで良かった。100人で校庭をほじくり返していたら遺跡発掘作業レベルで校庭が穴だらけだっただろう。
小学生になって出来た初めての友達が今どこで何をしているかはもう分からない。
お互い新しい友達を新しい場所で作り続けて出会いが巡り人生が進むのだ。
大谷翔平の決断を想う
先日、初めて肛門科に行った。
もう書き出しから恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。〝肛門〟という文字のインパクトはそれほどまでに強い。ご存知の通り〝肛門〟はう○この排出口であり、普通に生きていればなかなか他人に見られる様な場所ではない。
年に数回だけ切れ痔になる程度のわんぱくだった我が肛門が、この半年くらいで急にグレてバリバリの不良になり最近は排泄する度に少し引くくらい出血するようになってしまった。しかもずっとむず痒い違和感が纏わり付いている。
これは一度診てもらった方がいいと思い病院に行く事にした。
病院にも色々ある。耳鼻咽喉科、歯科、内科、泌尿器科、小児科etc..。
その中でも肛門科は未開の地だ。というか未開のままでいたかった。知らずに死にたかった。
だが我が肛門はヤンキー真っ盛りでこのままではヤクザになるかもしれないのだ。一刻も早く先生に更生して貰わなくては。
〝肛門科〟で検索し、非常に丁寧で柔らかい印象のHPの病院を見つけた。家からもそんなに遠くない。
「よし!ここにしよう!」と決断し向かう。午後の診療スタート時間ぴったりに到着し、入るともう待合室には男性が2名座っていた。同じ悩みを待つ同志だが、もちろん目線を合わせる訳ではなく静かに呼び出しを待っている。
受付で初診である事を伝えると診察の為の記入表を渡された。
「出血はありますか?」
「排泄は1日どれくらい?」
「便の硬さは?」
などなどA4用紙の裏表にビッシリと質問がある。一蘭の記入用紙が可愛く感じるほどの質問量に真摯に答えペンを置き、受付に戻す。
すると〝17〟番の番号札を渡された。
呼び出しは名前ではなく、番号らしい。名前ではなく番号での呼び出しは匿名性を高めるので病院側の配慮なのだ。つくづくデリケートな部分だと感じ、呼び出しを待っているとスポーツ専門誌のNumberが目に入る。
表紙には大谷翔平が笑顔で両手を挙げている。そういえば大谷の背番号は17だ。二刀流でメジャーでもルーキーイヤーから活躍したスターから写真越しに勇気を貰う。
10分ほど経つと「17番の方ー。」と呼び出された。ドキドキしながら診察室へ。
60歳を過ぎた頃のおじいちゃん先生と、30歳くらいのアニメ声の看護師さんが迎えてくれた。丸イスに座り自分の言葉でおじいちゃん先生に現在の状況を伝える。
おじいちゃん先生は
「そうですか。じゃあ早速診てみましょう。そこのベッドでズボンを下ろして横になって下さい。」
と優しく促してくれた。
看護師さんがタオルで自身の目を隠しながら、寝るポジジョンの指示を出してくれる。お尻を丸出しにしながら体を丸めて横になる。当たり前だが、かなり恥ずかしい。
ポジションが決まると看護師さんが
「先生、お願いします。」と声をかける。
僕はもう緊張と不安と恥ずかしさで目を閉じている。しかし反対に肛門は先生に向けてしっかり開いている。
先生がお尻に触れ肛門あたりを触ると小さな声で何かを喋ってきたが、声が小さくて全く聞き取れない。
次の瞬間、肛門に緊張が走る。
体中に力が入り勝手に固まってしまう。
「リラックスして深呼吸して下さい」
とアニメ声で呼びかけられるも、この状態ではリラックスなんか無理だ。肛門あたりをグリグリされ異物が入ってきている感じがする。肛門は筋肉を硬直させて異物の侵入を防いでいる。
30秒ほどの格闘が終わると肛門にヒリヒリ感だけが残り、体の緊張は解かれた。
おじいちゃん先生は座薬を入れてくれたのだ。しかし肝心の予告が全く聞こえなかった為、何の覚悟もなく座薬は僕の中に入ってきてしまった。
ズボンを上げ、おじいちゃん先生の前に座りなおす。おじいちゃん先生は症状は深刻ではない事を伝えてくれたが
「治療の選択肢は2つあります。1つは薬で治す方法。これでも治るとは思いますがいずれまた再発する可能性は高いです。そしてもう1つは手術をして不必要な肛門周りの筋肉を一部切除する事です。簡単な手術で午前中に行えば昼には帰れます。そして再発の可能性はほぼなくなるでしょう。」と宣告してきた。
薬による治療か。
手術による完治か。
初めての肛門科で唐突に突きつけられた二択。
〝カレー味のう○こ〟と〝う○こ味のカレー〟という幼稚な二択が頭を過ぎる。
しかし今回は肛門ありきの話なので、う○こはもはや例え話ではない立派なリアルなのだ。
先生の前で二択に悩んでいる刹那、ふと待合室で見た大谷翔平がフラッシュバックした。
大谷はメジャーでのルーキーイヤーの昨シーズンに肘を壊してしまった。その時に医者に提案された治療は二択だった。
薬による治療か。
手術による完治か。
大谷は結果的に手術を選んだ。後のインタビューで大谷はこう答えている。
「手術は嫌だし不安で避けたかった。でもまたいつ再発するか分からないまま野球をしたくない。僕は何の不安もない状態で思いっきり野球がしたいんです。」
〝思いっきり野球がしたい〟
こんなにピュアな答えが世の中にあるのか。
170km台の真っ直ぐなピュアだ。
その真っ直ぐなピュアが悩んでいる僕に問う。
「お前はどうしたいんだ?」
「どうなりたいんだ?」
「その場しのぎか?」
「それとも勇気を持って立ち向かうのか?」
〝思いっきりう○こがしたい〟
僕の答えは大谷と一緒でシンプルだった。
大谷に負けないくらいピュアな答えだ。
170km後半は出てるだろう。
大谷に背中を押されて僕は来週お尻にメスを入れられます。大谷ありがとう。
ゆれるラジオ
日々生活を送る中で気持ちが『ゆれる』事がある。
嬉しかったり、恥ずかしかったり、悲しかったり、辛かったり、可笑しくてしょうがなかったりと所謂"喜怒哀楽"の4分割では収まらない『ゆれ』がある。
以前は毎日の様に『ゆれ』があった。きっとそれは自分が今よりもっと子供だったから。
30歳を過ぎて『ゆれ』が恋しくなってきた。
もっと『ゆれ』たい。
もっと理性でコントロール出来ないような感情的になる場面が欲しい。
そんな場面を忘れないようにこのブログを作りました。
『ラジオ』とタイトルに付けたのは単純にラジオが好きなのと、自分の好きなラジオパーソナリティーの様に本音を落とし込む事を忘れないようにです。
ゆれるラジオ始まります。